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大人から子供までテレビの前で踊ってました ピンク・レディー

水曜日の歌謡曲

ピンク・レディー

1970年代後半から80年代にかけて社会現象となったスーパーアイドルです。
昭和世代とくに50代以上の皆様ならば一度はテレビの前で踊っていた記憶があるかも知れません。

昭和のアイドルと言えば、中三トリオに松田聖子
そしてキャンディーズ
でも忘れてならないこの二人 絶頂期は、1976年から約3年間
突如登場したスーパーアイドル ピンク・レディー について振り返ってみよう。

スター誕生

多くのアイドル、タレントを生み出した1970年代の視聴者参加オーディション番組から
ピンク・レディーの二人は、表舞台に登場した。

ミー(根本美鶴代、現・未唯mie)
ケイ(増田啓子、現・増田惠子)

スター誕生!の前にも
1973年に「ヤマハの全国オーディションに出場」
1974年のヤマハ主催のポプコン東海地区大会決勝に進出

とオーディションに出場していましたが、プロデビューのきっかけは『スター誕生!』だった。

『スター誕生!』(スターたんじょう!)は、1971年10月3日から1983年9月25日の12年間に亘って放送された、日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組である。略称は「スタ誕」(スタたん)。全619回。

ウィキペディア:スター誕生

1976年3月14日、『スター誕生!』第16回決勝大会に出演した二人は、地味な女性デュオでした。
アクト・ワン・エンタープライズとビクター音楽産業にスカウトされた二人は、数ヶ月後 驚くべき衣装でテレビに登場した。

ピンク・レディー誕生

フォークソングでデビューを考えていた事務所でしたが、ディレクター(飯田久彦)は、若さとルックスを前面に押し出し派手な衣装で「セクシーでありながら爽やかな可愛らしさ」を前面に押し出すことになる。

作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一 そして振り付け:土居甫 というプロジェクトが組まれ
これまでのキャンディーズのような可愛いだけではなく、セクシー路線を加えたピンクレディーが登場した。

「ペッパー警部」(1976年8月)

ペッパー警部の登場は、当時の可愛いアイドルではなく 少し大人向けの路線を狙っていたように感じます。

「ペッパー警部」(1976年8月)

作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一
あまり期待していなかった新人ということで阿久悠、都倉俊一の二人は、自由に楽曲をつくりあげることになった。
振り付けもセクシーとコメディ的な要素を組み入れ大胆な振り付けとなった

結果
売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーヒット
1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得
という 大ヒットに繋がった。

ピンク・レディー伝説のはじまりである。

オリコン1位連続

第2弾シングル「S・O・S」(1976年11月)

第3弾シングル「カルメン’77」(1977年3月)

「私の名前はカルメンです もちろんあだ名に決まってます」
阿久悠先生の作詞がキレッキレですね。

第4弾シングル「渚のシンドバッド」(1977年6月)

「ちょいと おにいさん なれなれしいわ・・・」

「あなたはセクシー」でやられた男子も多いのではないだろうか?
これほど激しいダンスでもきっちろハーモニーをしている二人の歌唱力は凄い

この楽曲の影響でサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」があ生まれたとかなんとか・・・

第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)


オリコンで12週連続1位という記録を達成

「あんちくしょうに会ったら・・・」
あんちくしょう! 阿久悠先生 凄い歌詞だ

途中から曲調が大きく変わる 都倉先生の遊び心たっぷりの楽曲

連続オリコン1位となり スーパーアイドルとなり社会現象になってゆく

子供達(とくに女の子)は、二人のダンスを覚えてテレビの前で踊っていました。

そして動画を見ていただければわかると思いますが、すべて 生歌、生演奏
昨今のアイドルのように口パクではない

ここが昭和アイドルの凄いところ

UFO

第6弾シングル「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーとなり 1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞
これまで演歌、歌謡曲ばかりの受賞曲にポップス系アイドルの初受賞となった。

第6弾シングル「UFO」(1977年12月)

「地球の男に飽きたところよ♪」という阿久悠の作詞は、斬新

土居先生の次々と繰り出される振り付けマジック

人気が頂点に・・・

サウスポー

第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなり
楽曲は、「読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録」をベースに女性の左投手と王選手の対決をモチーフとしている。

第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)

この楽曲は、オープニングのストップモーションを取り入れた振り付けが決め手

人気継続中

第8弾シングル「モンスター」(1978年6月)

野球の次は、モンスターと回帰路線

「目を覚ますのよ♪」の耳をつまむ仕草がポイント

第9弾シングル「透明人間」(1978年9月)

怪奇シリーズが続く 今度は透明人間 テレビでは、二人を消すという特殊効果が行われていた。
超能力ブームに会わせてくると言う時代をきっちり押さえた歌詞も面白い

「透明人間あらわるあらわる 嘘を言ってはこまります あらわれないのが透明人間です」
絶妙な この歌詞 言葉のマジックそのもの

第10弾シングル「カメレオン・アーミー」(1978年12月5日)

透明人間から カメレオンへ しかも アーミー

10枚連続 オリコン1位と出荷枚数の連続100万枚突破いう記録を達成

少しずつ露出が減ってゆく

第11弾シングル「ジパング」(1979年3月9日)
オリコン連続一位が途切れるが、ミリオンセラーは連続していた。

第11弾シングル「ジパング」(1979年3月9日)

少しずつ 人気が落ちてきたことは、数字が示していた。

作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一と言うコンビが一度ここで終わる

第12弾シングル「ピンク・タイフーン (In The Navy)」(1979年5月1日)


ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」のカバー曲となる。

第13弾シングル「波乗りパイレーツ(1979年7月5日)」

づたたび 作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一と言うコンビ復活

チャンネルを回してもピンク・レディーが歌っているという状況はなくなってゆく

ここで全米デビューに向かう

全米進出

第14弾シングル「Kiss In The Dark(1979年9月5日)」
全米デビューシングル ビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクイン
当時 坂本九に次ぐ記録で成功と言ってもいいと思いますが、国内ではあまり知られていない。

米国では、3大ネットワークのNBCで主演の冠番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功しているけど日本ではあまり知られていない。

大人のピンク・レディーと変わって行く

二人のための楽曲 マンデー・モナリザ・クラブ

第15弾シングル「マンデー・モナリザ・クラブ(1979年9月9日)」

阿久悠・都倉俊一コンビがそれまで子供向けになりすぎたピンク・レディーに対して大人向けに楽曲を作成
ピンク・レディーの二人は、「自分たちが本当に歌いたかった楽曲」であると後のインタビュー記事を見たことがあります。

お茶の間のテレビで子供達が踊っていたころのピンク・レディーとは違っていた。

終演に向かって

ここからさきは、記憶にない人もいると思いますが、シングルは出ていました。

第16弾シングル「DO YOUR BEST(1979年12月5日)」


1980年のモスクワオリンピック「がんばれ! ニッポン募金 Do your best!」キャッチフレーズで選手強化募金を呼びかけた曲

第16弾シングル「愛・GIRI GIRI(1980年3月5日)」


アメリカで活動中 日本では動画がなかった

第18弾シングル「世界英雄史(1980年5月21日)」


9月1日に解散宣言を公表

第18弾シングル「うたかた(1980年9月21日)」
アメリカで発売したアルバム『ピンク・レディー・イン・USA』収録曲
「Strangers When We Kiss」の日本語バージョンリメンバー (フェーム)(1980年12月5日)
映画『フェーム』の主題歌を日本語でカバー

第18弾シングル「Last Pretender」(1981年1月21日)
振り付け不明


作詞は糸井重里、編曲とプロデュースは高橋幸宏

第18弾シングル「OH!」(1981年3月5日)


ラスト・シングル阿久悠・都倉俊一コンビで締めくくりとなった。

こうしてピンク・レディーの活動が終了、ソロで活動することになる。

活動期間は4年7ヶ月

1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサート
観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人と発表されている。
日本中を熱狂させたアイドルとして寂しいフィナーレであった。

その後、二人はソロ活動を行い、歌手、役者、タレントとテレビに登場しています。

また、何度か二人でスポット的に再結成を行い、かつてのヒット曲を踊っている。

ピンク・レディーの楽曲は、amazon musicで聴くことができます。
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まとめ

1970年代後半に登場したスーパーアイドル
シングルだけでも 1000万枚を遙かに超えるセールス
テレビで見ない日はないぐらい活躍

平成、令和の時代になっても ピンク・レディーの振り付けで完コピできる人は多いと思います。
それほど テレビの前でみんな踊っていたし、3ヶ月毎に発売されるシングルで必死になって振り付けを覚えていたことがわかります。

ありがたいことにお二人自ら 振り付け動画がアップされていますのでぜひ 踊ってみてください。

セクシー過ぎることもなく、お年寄りから子供達まで愛されていたピンク・レディー

昭和の音楽シーンを駆け抜けて行ったお二人を忘れない

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ビクターエンタテインメント

最後までよんでいただきありがとうございます。

では、次回「水曜日の昭和歌謡」お楽しみに

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