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もう一度逢いたい 八代亜紀

水曜日の歌謡曲

NHK MUSIC番組【うたコン】ってご存じですか?

昭和歌謡が好きな皆様でもしご存じない方がいらっしゃったら是非ごご覧下さい。
往年の歌い手の皆さんが、現役で歌っていうる姿が見られます。
いい意味で 昭和の歌番組そのものです
NHK MUSIC番組【うたコン】ぜひチェックしてみてください。

今回の水曜日の歌謡曲は、NHK MUSIC番組【うたコン】にもその迫力のある独特の歌唱で私たちを楽しませてくれた 八代亜紀さんです。

最後まで読んでいただけたら幸いです。



1億曲以上が自由に聴き放題 ※空間オーディオ対応
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八代亜紀

八代亜紀は、2023年〈令和5年〉12月30日にこの世を去りました。
享年73歳 翌日は、紅白歌合戦という暮れも押し詰まったときでした。

八代 亜紀(やしろ あき、1950年昭和25年〉8月29日[2] – 2023年令和5年〉12月30日[5])は、日本演歌歌手女優タレント画家熊本県八代郡金剛村(現:八代市)出身[6]。本名は橋本 明代(はしもと あきよ)[1]

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中学卒業後15歳でバスガイド。その後、「キャバレー ニュー白馬」の歌のオーディションに年齢を誤魔化して参加し専属歌手として採用されたのが出発点 3日後 両親にバレて 勘当? 東京に旅立つことになった。
「歌手としての自信を持った大事な場所。ここが歌手・八代亜紀の原点」
と本人が語っている。

東京の親族の家で下宿させてもらいながら音楽学院に通い、学費と生活費を稼ぐため新宿の歌える喫茶店[注釈 4]でバイトを始める[注釈 5]

18歳の頃銀座のクラブで歌うようになると、ホステスたちから「あきちゃんの歌には哀愁がある」と好評を得た[注釈 6]。後日ホステスたちから「レコードを出した方がいい」と背中を押され[注釈 7]、その後レコードデビューへと繋がった[7]

そして1971年に歌手デビューした夜は嬉しさのあまり、デビュー曲「愛は死んでも」のシングルレコードを抱いて眠った[20]。同曲はヒットしなかったが、これまで応援してくれた人の気持ちに答えるためにも何とか売ることを決意、八代はトランクに同曲のレコードをたくさん詰めて地方のキャバレー周りをほぼ毎日繰り返して売り歩いた[注釈 8]

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その後

1973年に「なみだ恋」が大ヒットした後、トラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得る

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当時は、ラジオ全盛時代
深夜3:00からの放送されていたこの2つの番組は、人気があった。
走れ歌謡曲』(文化放送)
提供:日野自動車
「いすゞ歌うヘッドライト」(TBSラジオ)
提供:いすゞ自動車

提供をみればわかりますが、主に運送用のトラックを製造・販売していた会社で深夜ドライバーのほとんどの人が聴いていたという。

トラック運転手にもっとも受けたのが、「なみだ恋」だった。

なみだ恋

ここで「なみだ恋」を聴いてみよう


なみだ恋
作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳/編曲:小谷充

なみだ恋」(なみだこい)は、1973年2月5日に発売された八代亜紀の4枚目のシングル。

  • 「夜の新宿 裏通り…」で始まる哀感漂う悲恋を歌った曲で、60万枚の大ヒットとなる。この曲で八代は1973年(昭和48年)の第15回日本レコード大賞で歌唱賞を受賞し、第24回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。また東映映画(後述)の主題歌ともなる。なお、2000年(平成12年)の第51回紅白でも同曲を歌っている。
  • 当初は「雨のカフェテラス」がA面候補になっており、B面曲として用意されていた「なみだ恋」はレコーディングでほんの数回サラリと歌っただけだったが、最終的にはこちらがA面となり、大衆の支持を受けた。

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「なみだ恋」があまりにもヒットしたため、次のシングルは成功とも言えなかった。

しのび恋

ここで「しのび恋」を聴いてみよう

しのび恋
作詞:悠木圭子
作曲:鈴木淳/編曲:伊藤雪彦

しのび恋」(しのびこい)は、1974年1月25日に発売された八代亜紀の7枚目のシングル。

前年1973年にリリースした「なみだ恋」に続き、東映で映画化された(後述)。

同年5月にリリースした「愛ひとすじ」と共に年間TOP50にランクインしたが(「愛ひとすじ」は25位)、同年の紅白では「愛ひとすじ」の方がヒットしていたため、本楽曲は歌唱されなかった。

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「なみだ恋」の映画化に続き、「しのび恋」も『夜の演歌 しのび恋』として映画化された。
当時は、ヒット曲の映画が作成され 夜の歌謡映画シリーズとして制作

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演歌のトップランナーとして

この後も 愛ひとすじ おんなの夢 ともしび おんな港町 愛の終着駅 とヒットを続け 演歌歌手として不同な地位を獲得する。

ここで「おんな港町」を聴いてみよう

おんな港町
作詞:二条冬詩夫
作曲・編曲:伊藤雪彦

そして あの名曲が生まれる。

舟唄

ここで「舟唄」を聴いてみよう

舟唄
作詞:阿久悠
作曲:浜圭介
編曲:竜崎孝路

舟唄』(ふなうた)は、1979年5月25日に同日発売された、八代亜紀シングルおよびアルバム(2枚組)の名称、および、両者に収録された表題曲である。以下、特に注記しない場合は表題曲を指す。

解説
八代の代表曲のひとつ。1979年の発表当時のものは八代のハリのある高い声に合わせて曲の音程も高く(イ短調)、曲調も速めの3分57秒ほどで作られていたが、2000年以降発売されるCD等では八代の年齢による変化にあわせて当時のものより音程がひとつ低く(変イ短調)、曲調も4分20秒ほどのスローテンポで再録されたものが中心となっている[1]

八代の歌としては初の男歌であり、テイチクとしてはこの年の日本レコード大賞を狙う目的で発表された[2]阿久悠作詞の本曲を初めて八代が聴いた時、最初のフレーズを聴いただけで「必ずヒットする」と直感したという[3]。本曲は元々、『スポーツニッポン』に連載していた「阿久悠の実践的作詞講座」の美空ひばり編の教材として作られたものを[4]、過去に阿久と『街の灯り』(歌・堺正章)を創作して以降、作曲家として起死回生を狙っていた浜圭介が曲を付け、八代が歌うことになった[4]

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歌をきいているだけで情景が浮かんでくる 阿久悠&浜圭介という昭和歌謡のトップランナーが日本レコード大賞狙いでつくりあげたという 意欲作は、狙い通りにヒットするが、大賞は取れなかった。

勢いに乗り翌年 あの大ヒットが生まれる。

雨の慕情

ここで「雨の慕情」を聴いてみよう

雨の慕情
作詞:阿久悠
作曲:浜圭介
編曲:竜崎孝路

「雨の慕情」(あめのぼじょう)は、1980年4月25日に発売された八代亜紀の30枚目のシングル。

解説
シングルの総売上は「なみだ恋」に続き八代のシングルでは第2位を記録した。TBS系列『ザ・ベストテン』では唯一の登場曲となった。1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』の大トリで表題曲を歌唱した。

音楽性

前年発表した「舟唄」が男心を歌にしていることに対し、同じく作詞をした阿久悠が女心を歌にしたものとされる[1]

阿久悠/浜圭介コンビによる、「舟唄」「港町絶唱」と合わせて哀憐三部作とされた[2]。阿久によると、「舟唄」「雨の慕情」と徐々に評判を高めていき、最終的に「港町絶唱」で日本レコード大賞を狙うつもりであったようである[3]。だが、結果的には「雨の慕情」が予想以上のヒットとなり、同賞のほか多くの音楽賞を受賞することとなった。

阿久は、当初「雨々ふれふれ」というタイトルを考えていた[2]。しかしこのタイトルを聞いた本作のプロデューサー・小西良太郎が、阿久に「雨の慕情」への変更を助言したことでタイトルが正式に決まった[2]

それまでの日本の歌謡曲では、「雨」に関する名曲は切ないメロディが多かったとされる[2]。「雨の慕情」では、楽しく雨乞いをするような歌詞、切なさもありながら明るいメロディは画期的だった。一部マスコミからは、「日本人が楽しそうに雨に関する歌を歌うのは、『あめふり』以来」とも言われている[2]

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1980年の梅雨は、雨が多い年だった。
というのは偶然なんだろうか? とにかく街のあちこちでこの歌が流れていた。
※当時 街中で曲が流れていることが多かった

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歌うときの振り付けも流行ったと記憶している。

大人から子供まで「雨雨ふれふれ もっとふれ」と口ずさんでいた。

画家 八代亜紀

舟唄、雨の慕情をはじめ数多くのヒット曲を歌った八代亜紀は、演歌のトップランナーとして地位を築いてゆく

その後も数多くのシングルを発売しました。
多くの賞を受賞した八代亜紀ですが、画家としても功績をのこしています。

歌手活動だけに留まらず、画家としても活躍している。元画家志望だった父親の影響により、小学生の頃は将来画家になるつもりだった。また父親も実は、娘には歌手ではなく画家になってもらいたかったという[7]

子供の頃から長年水彩画を描いていたが、40歳頃に油絵の質感に惚れ込んで市川元晴に師事[26][27]。それ以来、写実的な油絵を描くことにハマっているという[20]。その後フランスの由緒ある「ル・サロン」展に1998年から5年連続入選し、日本の芸能人として初の正会員(永久会員[10])になるなど活躍している[7]

歌と絵について本人は、「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と評している[20]

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晩年には、絵画の世界での縁でパリ公演も実現している

2022年10月21日・22日の2日間にわたり、フランス・パリ日本文化会館で公演を開催した。公演は2020年の八代亜紀デビュー50周年に開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期。2年越しの開催を迎えた。絵画の世界において、伝統と格式のあるル・サロンから、永久会員の称号を授与されたフランスは、画家としても活動する八代にとって縁の深い地。パリ公演は2日間ともに完売。超満員で幕を開けたパリ公演で、1部では公演のためにあつらえた着物を着用。2部では装いを新たにドレスで登場。オープニングの「雨の慕情」からエンディングの「舟唄」まで、全編を通して”八代演歌”で客席のパリジャンからスタンディングオベーションが起こった。

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Jazz歌手として

Jazz歌手としても活動を開始しています。

2012年、日本コロムビアに所属しながら同社了承の下で、小西康陽プロデュースによるジャズアルバム『夜のアルバム』をユニバーサルミュージックから発売して世界75か国で同時配信され、歌手活動42年目で世界デビューする。マレーシアのiTunes Storeジャズチャートで1位、シンガポール2位、台湾4位、香港7位[21]、オリコン・アルバムチャートのデイリーチャートで最高9位、週間チャートで最高20位を記録し、ヒット作となった。オリコン・アルバムチャートTOP20入りは34年ぶりである。11月9日にジャズ歌手としてブルーノート東京のステージに立った[22]

2013年3月27日にニューヨークの名門ジャズクラブ・バードランドでライブを開催し、八代が憧憬するヘレン・メリルをゲストに招き初共演した。また4月29日には、そのライブの模様がNHK総合テレビでドキュメンタリー番組『演歌の女王 ジャズを歌う〜八代亜紀・ニューヨークでの挑戦〜』として放送される。同番組が反響を呼んで8月21日に当日のライブを収録したアルバム『夢の夜〜ライヴ・イン・ニューヨーク』が発売された[23]。さらに9月7日に開催されたジャズ・フェスティバル「第12回 東京JAZZ」に出演するなど、現在は演歌のコンサートと並行しジャズライブも積極的に実施している。

2015年10月、寺岡呼人プロデュースによる初のブルース・アルバム『哀歌 -aiuta-』を発表。同アルバム発売を記念して11月には、3年ぶりにブルーノート東京で『AKI YASHIRO “aiuta” Special Night』を開催。同じく12月には、東京国際フォーラムにて『八代亜紀 “哀歌” クリスマスコンサート』も開催[24]

2017年10月、ジャズアルバム第2弾となる『夜のつづき』を発売し、前作『夜のアルバム』に続いてiTunesジャズチャートで1位を獲得する。同作品の発売を記念して11月にブルーノート東京、12月にビルボードライブ大阪、2018年1月にブルーノート名古屋でジャズライブを開催[25]

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世界75か国で同時配信で
マレーシアのiTunes Storeジャズチャートで1位、シンガポール2位、台湾4位、香港7位[21]、オリコン・アルバムチャートのデイリーチャートで最高9位、週間チャートで最高20位を記録


これって凄い記録です。

2022年10月21日・22日の2日間にわたり、フランス・パリ日本文化会館で公演を開催した。公演は2020年の八代亜紀デビュー50周年に開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期。2年越しの開催を迎えた。絵画の世界において、伝統と格式のあるル・サロンから、永久会員の称号を授与されたフランスは、画家としても活動する八代にとって縁の深い地。パリ公演は2日間ともに完売。超満員で幕を開けたパリ公演で、1部では公演のためにあつらえた着物を着用。2部では装いを新たにドレスで登場。オープニングの「雨の慕情」からエンディングの「舟唄」まで、全編を通して”八代演歌”で客席のパリジャンからスタンディングオベーションが起こった。

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コロムビアミュージックエンタテインメント

日本のポップスもカバー

石川さゆり、坂本冬美の2人も演歌だけでは留まらない活躍をしています。
演歌歌手の歌唱力は並外れて凄いということがわかるだろう。

紅白歌合戦の前日の訃報

舟唄、雨の慕情をはじめ数多くのヒット曲を歌った八代亜紀は、演歌のトップランナーとして地位を築いてゆく

その後も数多くのシングルを発売しました。
多くの賞を受賞しJazz歌手としても活動を開始 ところが病魔が彼女を襲う

2023年9月12日、膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎のため、年内の活動を休止することを発表した[16]

以降は療養を続けてきたが、同年12月30日、東京都内の病院で死去した。73歳没。葬儀は八代の遺志により、明けて2024年1月8日に事務所スタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に所属事務所より公表された[17][18]

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「おおとり」もつとめた紅白歌合戦の前日亡くなった。

もう一度逢いたい

最後に八代亜紀の公園でアンコール ラストの曲として歌われていた この曲でお別れします。

もう一度逢いたい

「もう一度逢いたい」(もういちどあいたい)は、1976年9月25日に発売された八代亜紀の17枚目のシングル。

もう一度逢いたい
作詞:山口洋子
作曲:野崎真一
編曲:竜崎孝路

NHK紅白歌合戦では、第27回と第44回の、計2回歌唱されている。1976年の第18回日本レコード大賞では、本楽曲で最優秀歌唱賞を受賞した。翌年1977年の第19回日本レコード大賞においても、「愛の終着駅」で最優秀歌唱賞を受賞し、2年連続最優秀歌唱賞獲得という快挙を成し遂げた。

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素晴らしい唄を残してくれてありがとうございました。

ご冥福をお祈りいたします。

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